正式採用通知の受領と再就職半年後の事実上のパワハラ解雇

進める分野でのプロフェッショナルも経験者も居ない事に一抹の不安を

この日を、この瞬間を、どれほど待ち侘びたか…

 

ただ外資系専門転職エージェントのKさんは、「給与の条件が少し食い違いがあるようです… 詳細は、また追って連絡しますし交渉もします。 しかし正式な採用、それは間違い有りませんのでご安心下さい。」

 

 

家内に正式採用通知を知らせる

採用採用され緊張感を持つ

採用採用され緊張感を持つ

私は、もちろん給与などの条件が気になったが、私が提示した金額より大幅に下回らないならば条件を受け入れるつもりであったし、さほどそれは気にならなかった。

 

むしろ家内との旅行が出来るのか、それが気掛かりで「出勤の開始日、それだけ早急に確認して下さい。」とKさんに告げた。

 

電話を切り、その時、娘と外食している家内に一刻も早く正式な採用を告げたいと、娘の携帯電話をコールした。

 

私の再就職がやっと決まった事に対する家内の喜び、安心の声が、携帯電話から伝わってきた。

 

再就職8社目と決めた外資系企業から、正式な採用通知を受けた瞬間、やっとここまで来れた、その喜びを感慨を体中で感じた。

 

良かった、本当に良かった

 

再就職で新しい挑戦に

しかし、その数分後には、また違った緊張をも感じた。

 

私がマネージャーとして活躍が期待されているステージは、その外資系企業が3年間トライしてきたが一向に成果が出なかったフィールドなのだ。

 

率直に言って、一朝一夕に実績を出すことなど無論不可能であり、今後さまざまな困難、試練、改革、推進が必要な分野であり、全力をつぎ込む、その努力には完全な自信は有るものの、しかしその結果にはかなりの試練が待ち受けている事は間違いが無いのだ。

 

同じフィールドで働く義弟も「かなり困難な道」と言っているが、それは間違いが無いのだ。

 

再就職し果たして、結果が出るだろうか…

 

見事に正式な採用を手にした、その次は実績なのだ。

 

さらに、私が進める営業戦略自体を理解してくれるだろうか、という不安もあった。

 

何故なら、その分野でのプロフェッショナルも経験者も、その外資系企業には居ないからだ。

 

どういった段取りと協力者が必要なのか、その重要性も含めて理解を得られるかどうか…

 

しかし、もう後には引けない、自分の能力の全てを注ぎ込み、そして知人の協力を取り、悔いの無い努力を続ける、振り返った時、自分で自分を褒めることが出来るように、挑戦し続ける、努力する、その決意をして、その夜は久々に美酒を感じた。

 

支援してくれた方々へのお礼報告と半年後の事実上の解雇

8社目への転職・再就職を応援してくれた知人・友人に連絡し、大阪に単身赴任をして業務を開始した私であるが、会社の方針を最後まで把握することは出来なかった。

 

入社6か月という短い期間で8社目の外資系企業から解雇を言い渡された。

 

再就職の喜びを友人・知人と分け合う

半年後に事実上の解雇

半年後に事実上の解雇

正式な採用を受領し再就職に成功した事、すぐさま、それまで心配してくれた友人・知人に、メールで連絡した。

 

この文面を書く日、それを送信する日を、どれほど待ち焦がれたか…

 

さまざまな、お祝いのメッセージを受領した。嬉しかった。

 

中学時代からの友人は、すぐに週末、お祝いで呑もうと呑み会をアレンジしてくれた。

 

年に数えるくらいしか会えない旧友、しかし年末には必ず忘年会をしていたが、昨年は失業状態の自分、どうしても旧友と呑む気に成れず不義理をしていた。

 

しかし今はもう違う、皆と同じ世界に戻れた、共に喜びたい、なので、その週末にアレンジするとの連絡にお礼を伝えた。

 

また奇しくも、その週末は亡き父の3回忌でもあった。

 

これで集まってくれる親戚の方々とも晴れやかな気持ちで会える、そう考えると、嬉しさもひとしおであった。

 

これで、私の転職・再就職も終わりと信じていた。

 

半年で事実上の解雇

自分の経験、知識、人脈を活かせることが出来る職場、そしてポジションを得た、そう信じ込んでいた。

 

自分としては身を粉にして営業をした。

 

西から東へと行くことが出来るユーザー、会える人には全て会ってきた。

 

単身赴任という雇用形態で、大阪にワンルームマンションを借り家電製品も家具も買い揃え引っ越しをした。

 

まさに新天地のつもりであった。

 

しかし、会社の方針を最後まで把握することは出来なかった

 

半年という期間で、その外資系企業から解雇を言い渡された

 

私から言い出したことではあったが、経緯上、会社を辞めざるを得ない状況となっていた。

 

2010年の8月であった。

 

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